ジャン・ポール・サルトルの「嘔吐」で病跡学を考える2

2 人間サルトル

 ジャン・ポール・サルトル(1905-1980)は、幼少時に父親が死に、母方の祖父の下で育った。3歳で右目を失明し、強度の斜視になる。
 1933年から1934年までベルリンに留学し、気象学を学んだ。1935年、想像力の実験のため、友人の医師ラガシュによりフェネチルアミン系の幻覚剤メスカリンを注射してもらう。甲殻類が身体を這いまわる幻覚に襲われ、鬱症状が続いた。甲殻類は嫌いであった。ベルリンに留学し執筆を始めた「嘔吐」は、フランスに戻ってル・アーブルやパリで教鞭をとる傍ら、1938年に出版される。
 戦中戦後にフッサールの現象学やハイデッカーの存在論、そしてソビエトの諸外国への信仰を擁護する立場からマルクス主義に傾倒していく。そこには、カミュやポンティとの決別もあった。ソビエト寄りの共産党には加入せず、次第に反スターリン主義の毛沢東のグループを支持するようになる。
 その後、マルクス主義は、発見学として捉えられ、その中で個人の意識の縦は、精神分析学の成果を、社会の横の統合は、アメリカ社会学の成果を取り入れた。これにより、20世紀の知恵をまとめるべく構造的、歴史的人間学を基礎づけた。
 公的な賞に関してすべて辞退している。ノーベル賞は、辞退の書簡の到着が遅れたため、ノーベル文学賞決定後の辞退となる。1964年のことである。
 1973年、激しい発作に襲われる。右目の失明に加え、左目の眼底出血により両目を失明する。そのため、内妻のヴォ―ヴォワールとの対話を録音し、自力での執筆ができなくなったことを共同作業で補うとした。主体重視の実存主義からユダヤ教への思想の転換もあり、サガンと交流するようになった。
 1980年肺水腫で亡くなり、モンパルナス墓地に埋葬された。養女のエル・カイムらの編集により、死後、多数の著作が出版されている。

花村嘉英(2022)「ジャン・ポール・サルトルの『嘔吐』で病跡学を考える」より

シナジーのメタファー3

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